日本国憲法の目指す方向は

雨模様なので倉庫を片付けていると、本の間から30年前に驚きと感動をした小さな冊子が出てきた。

すでに故人となっている和田重正さんの「自覚と平和のプログラム(1)~(10)」である。

自衛隊を退職して間もなくの頃であった。和田さんが若い方と共に生活していた丹沢の山の中の一心寮

に泊まらせていただいたこともあった。自衛隊という職業柄空手道もやり、戦うことが常に頭から離れなかった私にとって、「無防備で生きる」和田さんとの出会いはそれまでの自分を大きく変えてくれた。

冊子を今読んでみても、世の中は30年前と状況は変わっていない。いや、むしろ後戻りできない崖っぷちに来ているように感じた。

このまま武力を背景に外交する国づくり世界づくりをするのか、信頼関係を基にする国づくりをしていくのかは、不自然なバラバラ観を脱し、一体観に至れるかどうかにかかっている。

全体の中の自分という一体観を持つ人が増えていけば、この世は変わることができる。

以下、平和と自覚のプログラム(10)「憲法をもう一度見直そう」の一文(30年前のものである)

日本国憲法を見直そう

憲法はいったい何を言おうとしているのだろう。

その文字、でなく、そのこころを深く読みとろう。

 

現行憲法の個々の条文にはいろいろな問題点がある。しかし今はその一々

の問題点を取り上げて論じている時ではない。この憲法で表明された国家姿

勢がどのようなものであるかが問題なのだ。それに結着がつき国家の基本姿

勢がきまれば一々の条文はそれに沿って整えられる。

まずこの憲法は何を宣言しているのかを確かめなければならない。

昔ながらの武力立国か。

  独自の丸腰平和立国か。

 

 

+二月八日に思う

 

昨夕日記の冒頭に十二月八日と書いて、「ああ八曰」と私は呟いた。

あれからもう四十二年(*現在で七十二年)たった。そしてその間少しの切れ目もなく歴史は流れ今に到っている。夢のよう、と言えばまことに夢のようだ。ただ夢と異るところは夢ならば覚めれば、見たこと聞いたこと触れた物、悉く消えてしまうのに現実は覚めやらず、英米に対する宣戦布告、真珠湾の敵艦隊撃滅、そして敵味方将兵と民閲人の数知れぬ悲劇を含んで遂に昭和二十年八月十五日の無条件降伏の受諾に至った。

その時生き残った私たちは「もう戦争はいやだ」と心の底から思ったものだ、「君のため、国のため」とはいったい何んだろう。その反省の逞(*いとま)もなく、戦場に駆り立てられ、そして異国に消えて行った肉身たち、「もう何があっても戦争だけはするものではない」恐らく、マッカーサー以外の人間は敵も昧方もそう思ったに違いない。

その時の思いを込めて、昨日の敵の連合国、実はその主力のアメリカが、喧嘩相手だった日木にくれたのが曰本国憲法だ、昭和二十一年十一月三日制定、翌年五月三曰施行。この頃まだ壮年だったわれわれは、精神的疲労と極端な栄養失訓のため朦朧としたアタマを抱えながらも、その憲法の前文をどんな思いで読んだだろう。第二章第九条に至って心から、敗戦は無駄ではなかった、三百万の壮丁(*壮年の男)の生命と仝産業設備の犠牲によって、この平和宣言ができたということは全人類にとって何か無限に大きな意味のあることだ、と深い悲しみの中にも明るい希望を抱いたものだった。

それからの三十六年開、われわれ国民の代表である国会議員の中から選ばれ構成されたの歴代内閣が何をして来たか、曰本国憲法の指す方向に努力して来ただろうか。そのことについてはこのパンフレッ卜に繰り返えし述べて来たところだが、今日、事態はどうなっているか。

日本の内閣は国民一般の蒙昧を奇貨として、武力に頼る平和を目指して正而切って行勣を開始したと判断せざるを得ない。

「敵が攻めて来たとき防術手段がなかったらどうする。」「敵が侵略意欲を抱かぬ程度の抵抗手段を講ずるのは当然で、それは憲法の趣旨にも反しない」……と言いながら、憲法の改訂をさえ唱えている……そして根本的に建前を異にする米国や韓国と事実上の軍事同盟を結んで、勇んでいるのが現今の内閣の姿ではないか。

日本の憲法は彼等の見るところとは仝く異る方向を目指しているのだ。――――それを首相以下の現実主義者たちは、憲法は理想主義だ、夢想的発想だ、と言うのだろう。

なるほど彼等からすれば、そう見えるかも知れない。しかし曰本国憲法の目指すところは、非常に困難な道であろうが実現不可能な道ではないのだ、この憲法制定当時多くの直観力のある国民は「可能だ」、と思ったのだ、だからこれに賛成したのだ、しかしその可能性に論理的根拠を示す者がなかった、そのために、浅はかな現実主義に押しまくられて今日に至ってしまったのである。

「アブナイッ」今でも多くの知識人は内心でそう叫んでいるに違いない。しかしどうすることもできないでただ大勢に押し流されているのだ。

「アブナクナイ」方向への論理的推進ができないからではないだろうか。

この論理の発想は、中途半端なところに足場を持っていては駄目なのだ。現実の人間の在り方を肯定しておいて、その上に絶対平和を築き上げようとしても、それは無理である。

そのようにアヤフヤで真剣昧のない基盤に立っての平和構想では、終戦以来今曰まで日本政府が実行して来た、「敵に二の足踏ませるための防衛力による平和」という昔ながらの道の踏襲になってしまう。だがこれは、日本が一切を犠牲にして得たこの憲法の求める道ではないのだ。

個人でも同じだが、国家が周囲に喧嘩支度をととのえた国々を控え、その真只中で丸腰で、それらの国々と全く異る立国方針を宣言しそれを実行しようとした場合、その姿勢を堅持するための論理的根拠を、例えば、昔ながらの善悪論議に暮れる既定の道徳律に求めるような生易しい、いい加減なことではとてもとても自らが生き延びる可能性さえない。

本気で新たに自由な、平和な世界を開こうとするならもう一歩踏み込んで、人間存在の実相、人間とその世界の真実相を確認し、その上に足場を定めて絶対不動の根拠に立たなければならない。そんなむずかしいことが出来るか、と人は疑うかも知れない、否、疑うのは当然かも知れないが、どうして曰本があの惨胆たる破滅を経験したのだろうと考えてみればよい。単なる因果の理法に転ぜられたのだ、と他人事のように言っていられるだろうか、生きている人間集団である一国があの有様になったのは、神仏のはからいだ、などと言おうとするのではない、ただ、あの経験を無駄にしてはならない、と思うのだ。そして今後の具体的努力目標を設定しなければならない。その時に当って、「これだ!」と示されたのがこの憲法だ。

仏教基督教神道その他諸々の宗教も少しましなものはそれぞれに自宗の教に即して曰本の、拠って立つべき原理を明示し、その上に建てられた方向を具体的に指示したはずである。人々の物質、感情レベルの困窮不穏を奇貨としてその脱出を専門に説く類似宗教の類もそれはそれなりの存在理由があるのだろうから、それはそれとしておいて、国民によって決定される国家の姿を選定する場合に各宗教宗派の果たすべき任務を果したものがどれだけあったろう。宗教は俗事には直接関らない、と遁げるかも知れないが、その遁辞は明かにウソである。

この国家非常の際に国民の努力目標を掲示できないのでは、その宗教の説くところは空論だと言われても返えすことばは無かろう。

宗教への八ツ当りは別として、各種の評論家、教育者、中でも大学教授たちでこの問題に積極的に取り組んで来た人がどれだけあるだろう。その知識人たちの中でも政府の再軍備方針に阿諛する(*あゆ:おもねりへつらう)向は時にこの問題に触れることはあっても、憲法の実行を真向に掲げて論陣を張る人がなんと少かったことか。

左顧右眄(*)周囲の情勢をうかがってばかりいて決断をためらう)の徒はおいて、われわれは今この危機に臨み日本国憲法の無武装方針を貫く具休的方針の確立を急ぎ計らなければならない。

繰返えし言う通り、この平和建設の道は生易しい道ではない。国民を脅し、友邦に媚びて行なう再軍備のたやすさとは比較にならない厳しい道である。しかしその難路は報われることなき地獄の道ではない。困難の中に大いなる喜びを含んだ道である。世界中に戦争という最高の愚挙に命をかけ国をかけるバカ者が居なくなるIそれを思うだけでも今日の骨折りを償って余りあるものではないか。それとも、隣家の餓死に瀕する人を見棄て己れの飽腹を叩いていたいのか。そんな薄情な人開はまず居まい。にも拘らず、日本国憲法を見棄て、再軍備に情熱を燃やそう、というのは結果として隣家の餓死を見棄てわが飽

腹を叩くことに生き甲斐を覚えるの類だ、決してほむべき生き態ではない。

己れの食料を半分にしても餓える隣家を助けたい、というのが人惜ではないか。

その人情を実行することができない仕組みになっているのが現在の人類社会なのだ。人類社会は今家というエゴイズム集団の寄り合いになっている。この様相が変わらなければどうにもならない。それを変えるように具体的積極行勣に取りかからなければならないときだと言うのだ。祈るのも、叫ぶのも戦争を避け平和を確保するための具休的行勣でないとは言わない。しかしそれは平和のための地ならしであり、土台造りでしかない。その上に建てるべき平和の殿堂はもっと骨の折れる作業を要求する。その大まかな設計図の呈示が曰本国憲法になされているのだ。この大方針を具休化する仕事を曰本国民が自ら課したのである。それにも拘らず日本の政府はその方向への努力をせず、昔ながらの武装外交に戻ろうとして憲法を無視するばかりかこれを抹消しようと、国民の目を欺して来たのは識者のよく知るところだ。殊に現内閣に至っては仮面をかなぐり捨てて、武装国家再現の道に正面切って乗り出した。

事此処に到っては最早現憲法の指す道を実現することは不可能なのではなかろうか。狂瀾既倒に廻そう(*砕けかかる大波を押し返す)とする類だろうか。

それでも私は奇蹟に非ざる奇蹟を望んで、もう一度日本国民に訴えてみないでいられないのだ。